世界の忠-ちゅうしん-がゴルフを叫ぶ

第1回 ゴルフとの出会い!



第1回 ゴルフとの出会い!

ボクたちの年代は、小学生であれば男の子なら例外なく野球少年だったはずです。
ミスタープロ野球 長嶋茂雄さんの全盛期こそ過ぎていましたが、世界のホームラン王、
ワンちゃんこと王貞治さんの日本新記録、そして世界記録をリアルタイムで見て、また興奮
していた世代です。 小学生だったボクもまた、ご多分に漏れず野球少年でした。
それもかなり熱い野球少年。 自分の通う小学校には野球チームがなく、そのために隣の
学校区のチームにわざわざ入れて もらって、それで野球をやっていたんです。



野球を始めたのは、確か小学校2年か3年生の頃ではなかったかと記憶しています。
中野ジャガーズには、学年と実力別にA〜Dの4チームがあり、ボクが最初に入ったDチームは、
チーム内で「ジャガタレD」と呼ばれていました。
ジャガはジャガーズのジャガでしょうが、タレは「鼻タレ」、「ガキタレ」、あるいは
「ヘタクソっタレ」からきたのか定かではありませんが、とにかく出ると負けの弱いチームであ
ったことを覚えています。
ところがボクの加入により(!?)、中野ジャガーズDチーム、通称「ジャガタレD]は
メークミラクルを起こしてしまいます。
記憶は鮮明ではありませんが、「17」という数字を覚えています。
そう、確かこの連戦連敗の弱小チームが、17連勝するまでのチームになってしまったわけですよ。
ボクが小学4年生のときの話です。


当時、体も大きかったボクは、エースで4番。当然、将来はジャイアンツの選手として活躍して
いるのだと、信じて疑わない少年でした。
自分でいうのもなんですが、結構、非凡な野球選手でしたからね(笑)。
それはともかく、その野球少年としての黄金期がボクにとっては野球との決別のきっかけにもな
ったのです。


ボクたちジャガタレDは、中野区大会を勝ち抜き、区の代表としてとうとう都大会にまで進出
したのです。
その都大会の一回戦でボクたちは敗退するのですが、ボク自身大きなショックを受けた敗北に
なりました。
それはレベルの差を知ったからでも、同年代でボクよりも上手な選手の存在を知ったからでも
ありません。
ボクたちは相手チームの執拗なバント攻撃にさらされ、投げては走り、走ってはボールを拾い、
そして悪送球・・・・・・という繰り返しで、自滅していったのでした。
それはボク自身の野球選手としての未熟さでもあるのですが、しかし一瞬にして野球への情
熱が冷めてしまったのも事実です。
漠然とですが、「どうせやるんだったら個人競技がいいな」小学4年生、10歳のボクはふとそん
なことを考えたのを昨日のように思い出します。
実際に野球は小学6年生まで続けたのですが、この敗戦をきっかけに始めたのがゴルフでした。
始めたといっても、父親とすでにゴルフを始めていた中学生の兄が通う練習場についていくだけ。
当時、通っていた環7ゴルフセンターのバンカーは無料で遊べたので、ひたすら一日中、砂遊び
をしていたんです(ちなみに今でも若干、スウィングがアウトサイドインの軌道になるのは、バンカー
でゴルフを覚えたせいかもしれません)。




「キミはなかなか上手いねぇ」
なぜか練習場にあった6段の跳び箱のうえに立ち、しょっちゅうそう言ってくれた老紳士が、宮本
留吉プロであることを知ったのは、随分後になってのことです。
ボクはただひたすら、バンカーにあるボールを高く上げることに興じていました。
ただミスをしたとき、そのミスが自分のせいだと思えるゴルフは、子ども心に痛快でした。



宮本留吉(みやもと とめきち)] (1902〜1985)

名門 茨木CC出身
1929年、30年の2年連続を含む日本オープンで6勝、日本プロ、関西オープン、
関西プロ各4勝
草創期の日本のゴルフ界を牽引したひとりであり、戦前の1929年には安田幸吉、アマチュア
の川崎肇とともに、日本人初の海外遠征となるハワイオープンに参戦。
また2年後の1931年には、安田幸吉、浅見禄蔵とともに米国西海岸で行なわれるウィンター
サーキットにも参戦。
翌年には全英オープン、全米オープンにも出場した。
インテリ、文化人としても知られ、その信条は「念ずれば花開く」。







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